なぜパワハラをしてしまうか

今回は、なぜパワハラをしてしまうかの背景として「科学の知」というスタンスを説明したいと思います。

科学は、この数百年、我々の世界に多大な利益をもたらしています。その中で我々が受けてきている教育は、厳密には19世紀ごろのデカルトという思想家が提唱した「合理主義」的なものが根底にあります。1+1=2ですし、証明できないことは信用できないですし、見えないものは怪しいものという方向性の教育です。

20世紀は顕微鏡と望遠鏡の時代とも言われましたね。

formula, flask, experiment, retort, test tube, chemistry

 

そういう教育の中で培われるスタンスは、

  • 客観性…主観を排除し、誰が見ても同じ事実であること
  • 論理性…正しさ、理屈が通っていること
  • 普遍性…すべてのものにあてはまること

が大切である、という考え方です。これを「科学の知」と呼びます。

「科学の知」に当てはめると、間違うことは許されないことであり、客観的に受け入れることができないことは間違いであり、個性は社会の中で受け入れられるものでなければならないことになります。

 

しかし、人間や人間同士の関係性はこのスタンスで理解できないことが多いです。そこで、そのアンチテーゼとして中村雄二郎という哲学者が「臨床の知」と言うのを提唱しました。それらを少し意訳しながら対比させると

  • 客観性 ⇔ 主観性
  • 論理性 ⇔ 多義性
  • 普遍性 ⇔ 相互性

ということになると思います。

 

これは、まさしくパワーハラスメントが発生している時を理解するときに使うことができます。

例えばパワハラの訴えがあると、組織はよく「客観的事実を確認する」と言われます。しかし、例えば客観的事実が、「被害者である部下が同じミスを何度もするので上司がその仕事を取り上げて別の部下にやらせた」ということであったら、パワハラはなかったことになりそうですね。

この流れによって、パワハラの訴えは否定され、訴えをした人は受け入れてもらえなかった思いを募らせてさらに過激な行動をとる可能性が出てきます。

実は、パワハラは主観的事実であり(主観性)、正しさではなく部下の価値観での話であり(多義性)、その上司と部下の関係性における出来事なので(相互性)、やはり、パワハラはあった可能性が高いのです。

つまり、その上司と部下の間には信頼関係がなく(相互性による発生機序の理解が必要)、上司は正しくあること以外を受け入れるつもりがなく(多義性の否定による価値観の強要の可能性)、部下の気持ちを全く無視して(主観性の否定)いることからパワーハラスメント(力による嫌がらせ)は発生している、という考え方になります。

例えば、コロナ禍においてマスクをすることは、「科学の知」からすると論理性がありますし、客観性もありますし、普遍性もありますが、「臨床の知」からすると、閉塞感と言う主観性から装着を嫌う人は海外にはたくさんおられますし、マスクなしでコロナウィルスにり患してもそれもありという多義性を持つ人もやはり海外では一定数おられることはメディアでよく見受けます。

 

ある大手企業の部長が部下の課長に、「出張での会議の内容について、抜けがあると嫌なので、報告書にまとめるのではなく録音してきて」と言った話を聞いたことがあります。「科学の知」もここまでくると怖いものがありますね。確かに、出張の報告書には主観が入る可能性があります。それを防ぐのであれば、報告書より録音を聞いた方が確かかもしれません。でもそれは、他者の主観を否定することで機械の世界をつくろうとしているように思います。

 

人間社会は、主観性の塊です。もちろん同じ組織にいることでその主観性をある程度同じ方向に向けることは必要なことはあるでしょう。それは組織の価値観として求められるものです。しかし、それでも人間同士の交流は主観性や多義性の交流であるという理解が必要です。だからこそ、お互いを理解するためにコミュニケーションは不可欠ですし、人は変化していくものですから、コミュニケーションを絶やさずにお互いの価値観を確認しあうことを継続することもとても大切なのだと思います。家族でも、うまくいかなくなる家族はこの作業をできていないことが原因のことが多いと思います。

 

人のマネジメントをしていく上で、「科学の知」だけを活用するとパワハラをパワハラと思わない事態が発生したり、相手の価値観を否定するパワハラをしてしまったりが発生しやすいと思われます。「臨床の知」を理解して、自分の価値観の中に組み込んでいくことが重要です。

参考文献:『臨床の知とは何か』 中村雄二郎著 岩波新書